『消えたパン事件』後編

「パンを一切れ」という言葉が聞こえたのと、紳士が店に備え付けの椅子を自分の前に持ち上げたのは同時だった。そして椅子の背もたれに矢が突き刺さるのも。
 例の廉価版小林幸子が羽根に仕込んだ矢を放ったのだと分かるまで、少し時間がかかった。店の人がおびえるのを尻目に、あとの二人が紳士に一気に距離を詰める。
「速射だ」
先生がすかさず分析する。
モンゴル帝国の秘伝だよ。刀を抜くより早く射かけることができたおかげで、近接戦闘でも優位に立てたといわれている。そして、帝国の崩壊とともにユーラシア大陸のほぼ全域に離散したこの技術はボウガンの普及とともに姿を消したと思われていたが、まさかこんな所でお目にかかれるなんてね」
「何でそんなこと知ってるんですか?」
私はすかさず質問する。
「僕が北海道の学会に行ったとき、向こうでジンギスカンを頂いてね。そのあといろいろと個人的に調べたんだよ。世の中ではフビライ義経だとか何とか言われているけど実際はコナン=新い……」
先生のうそくさいうんちくは矢の一閃にかき消された。
「手出しは無用――あたくし申し上げましたよねぇ」
荻谷さん(大)が自分の目の前を通り過ぎた矢に苦々しげな顔で
「やくざもんどもが……」
「何なんです、あいつらは?」
先生の語気は鋭い。
「それは僕から説明しましょう。彼らについては祖父より僕のほうが詳しいと思います」
荻谷さん(孫)が先生のほうを見る。
「彼らは“灯”(あかり)という組織のメンバーです。“灯”というのは表向き祖父の所属する国際探偵局と同じようなもので」
「全然違う!あいつらは犯罪をオモチャにしているだけだ!」
「とりあえず、本来は怪盗とかそういう毛色の変わった事件を扱う組織です」
あの三人がそうとは思えないけど。
「しかし、実情はむしろ犯罪組織です。名探偵の能力を悪用し、秘密を盗む。あるいは、事件を迷宮入りに導く。かつては政府の転覆をもくろんだり、逆に時の権力者の命によって政敵を暗殺したりしたとも伝えられ、すぐれた頭脳を集め、公権力の力の及ばない世界で暗躍しています。彼らはおそらくあの怪盗を生きたまま捕まえる気はないでしょう。“灯”のシマで騒ぎを起こした人間を生かしておくことは即“灯”の影響力に傷がつくことを意味しますから」
あの三人がそうだというならずいぶんと目立つ格好の犯罪組織だ。
 私たちがなんとも非現実的な話を聞いている間も、非現実的な三人組と怪盗は店の中を所狭しと跳ねまわっている。怪盗は体形からは想像もつかないスピードで、私はスーパーボールを思い出した。それを追うのがハンマー少年、さらに少年を(そして私たちも)無視して矢を連射するのが羽根少女、面付き男はそんな二人の様子を優しい目で見守っているのだろうたぶん。お面で分からないけど。
「須磨ぁ、早くそぉんなメタボ怪盗の一人や二人、やっておしまぁい」
「うっせえ。おまえの矢が邪魔なんだよ」
言いながらも、少年は確実に怪盗に近づいている。
「助さんじゃなかったのか」
先生が変なところでがっかりしている。今まさに修羅場という時に、のんきな人だ。というか、あの自己紹介を信じていたのか。
「へい、パン一丁お待ち!」
さらにのんきな人がいた。食べ物屋さんがこんなに豪胆さを要求する仕事だったとは。
 チャンチャンバラバラしていたはた迷惑な人たちも、一瞬あっけにとられて動きを止めた。そのすきを逃さず怪盗が行動を起こす。目にもとまらぬ早業で須磨と呼ばれた男の子の横を抜く。我に帰った少女の目に恐怖の色が映る。速い。少女はとっさに目をつむる。
「いただきます」
三秒後、そこには元気にパンをほおばる怪盗の姿が!(世界丸見え風)怪盗がこんなにユルさを許容する仕事だったとは。
 マイペース人間に巻き込まれた若き犯罪者たちが、怪盗に向けて怒りのオーラを照射している。不意を突かれたのがよほど悔しかったのか、はたまた私の世界丸見え風実況が気に障ったのか、一歩でも動けば刺されそうな緊張感が漂う。
 先に動いたのは少年のハンマーだった。振り手と同じくらいの大きさをもつそれを片手で振りぬく。某海賊漫画の一場面を彷彿とさせるが、たぶんあのハンマーは本当に重いのだろう、そう信じたい。けど、それを確かめることはできなかった。怪盗はハンマーに当たるどころか、その動線のはるか上に跳び上がっていた。刹那の後、怪盗の体には三本の矢。床に崩れ落ちた怪盗に再び少年のハンマーが襲い掛かる。
 シュウウウウ。
 怪盗の体から白煙が噴き出し、視界を覆う。
「外です!」
店の人が言うや否や、外へ飛び出した(であろう)三人。私たちはというと、椅子やら机やら先生やらにぶつかりながらやっとこさ店を出た。外界の明るさに驚く。
「あれを見てください」
店の人が指差す先には「美食怪盗」と大きくプリントされたヘリコプターが止まっていた。私たちを見つけたヘリコプターは独特の回転音を出して離陸し始める。目を開けていられないほどの風圧が私たちを襲う。その機体が地面から離れようとした、まさにその瞬間に真っ二つに裂けた。
「『宝剣』……すべてのものがハカイできると謳われた伝説の剣。普通の剣とは全く違う構造を持った特殊な剣だ。通常剣は端を鋭く研ぐことで斬撃を生み出しているため、切れ味と強度を両立することは不可能に近い。しかし宝剣は振り抜くときに表面の微小な凹凸が発生させる空気の渦によって斬撃を生み出している。ゆえに刀身自体は物に当たらず、刃こぼれが発生しない。さらに高速で振り抜けば、斬撃を伴う気流を発生させ、某海賊漫画の“飛ぶ斬撃”を再現できる。そのうえ表面の多孔質のおかげで、水中でかき混ぜると汚れを吸着して水を浄化できるし、爪を整えるやすり代わりにも使え、滑り止めとしてもよく使われる、まさに万能の剣だ」
先生の胡散臭い解説を聞きながらヘリコプターの残骸に駆け寄った私たちが見たのは、ボロボロになった人形(車の衝突実験とかで使うような大きいやつ)だった。
「どうやら、逃げられてしまったようですね」
先生は心なしか明るい声で荻谷さん(大)に声をかけた。
「店の中に荷物を置いたままです。煙もやんできたようだし、店に戻りましょう」
まんまとしてやられた私たちは、むしろ清々しいくらいの気持ちだった。さっきまでの緊張がほぐれてきたのが分かる。先頭の先生なんて、さっき私たちが散らかした椅子につまずいて転びかけている。
「先生、大丈夫ですか。まだ薄暗いのに目が慣れてないんじゃないですか」
かろうじてバランスを取り戻してこっちを見た先生の眼は、しかし、事件の終わりを喜ぶ目ではなかった。
「戸賀君、荻谷さんを連れて帰りなさい。僕とお祖父さんは美食怪盗が目をつけたパンを頂くことにするから」
言い方は優しかったが、有無を言わせぬ力のある言葉だった。
 

 帰ったのを見届けて、先生は話し始めた。
「さて、僕は先日、お祖父さんに一本取られてしまいました。僕はお孫さんと部屋を入れ替えたのですが、お祖父さんはそのことを見破ってしまった。もちろん、同じ間取りの部屋、設備も同じ、僕の私物はすべて片付け、部屋の中はお孫さんのものだけ。どうやって見破ったと思われますか?……椅子です。椅子の高さです。僕はお孫さんよりだいぶ背が高い。でも僕とお祖父さんは同じくらいの背丈です。お祖父さんが座ったとき、椅子はぴったりだった。本当はもっと高くなければいけなかったのに」
「一体全体なぁんの話をしてらっしゃるのかしらぁ?」
けだるそうに少女が尋ねる。
「……要は、一見当たり前のように思えることが、実はおかしいということです。椅子に座った時高すぎたり低すぎたりすればすぐおかしいと思う。しかし、ちょうど良い時はなかなかそのことについて深く考えられない。
「あの怪盗、入ってきてすぐ店の人のほうへ向かいました。薄暗がりに目が慣れていた僕たち、店の人が誰かを知っていた僕たちにとっては不自然ではない。でも、明るい外から入って来た怪盗、猟銃騒ぎを知らない怪盗がとった行動にしては不自然です」
「でも、怪盗なら夜目も利くだろうし、前もって下見しておけば店の人(つまり私ですが)も分かると思いますけど」
と店の人が控えめに疑問を呈してみる。
「しかし怪盗はあなたがパジャマ姿で客と談笑することは予想できない。何せあなたの言うところによると、この店は五年前から一人も客が来ていないんですからね。もし、怪盗がそのことを知りえたとすれば、それはあなたの口からしかありえない。
「あの怪盗、怪盗仲間からは評判が悪いようですが、食通の人には案外信頼されているのではないでしょうか。これは私の想像ですが、あの怪盗の本当の目的は食べ物を宣伝することにあるんじゃないでしょうか。最初から店とグルだから、煙のように消えるなんて芸当ができたんです。
「怪盗が煙を出した時、あなたは『外です!』と叫んだ。どうして分かったんですか?というより、そうやって外に注意を向けさせる手はずだったんですね」
「つまりぃ、あたくしたちはくだらない芝居に付き合わされただけだった、ということかしらぁ?」
「『付き合わされた』というのは正確ではありません。あなたたちもまた、この芝居の重要な登場人物なのですから」
「それは一体どういう……」
「『外です!』と叫んだとき、あなたたち全員が外に飛び出した。あなたたち“灯”は怪盗などの事件を取り扱う組織ということですが、今から思えばあの対応はいかにもお粗末ではないでしょうか。まるで、わざと一旦逃がしたかのように思えるのですが」
「『全員グルだった』なぁんてあんまりにも安直ではなくって?」
「そうは言っていません。店と怪盗はグルでしたが、あなたたちと怪盗はそうではない。あなたたちとグルなのも店です。あなたたちは怪盗がどこに逃げるか知っている。後で始末するつもりなのでしょう。僕たちの目がなくなってからね」
話を終えた後も、誰も声を出さなかった。沈黙を破ったのは店の人だった。
「私にはお金が必要でした。このビルを守るために。このビルは近々取り壊される予定でした。私はこのビルの持ち主と交渉して、ここを買い取ることにしました。しかし、ビルを買うにはお金が足りなかった。てっとり早くお金を集めるために怪盗を頼んだり“灯”に協力したりしました。
「でももういいんです。私の計画は全部見破られてしまったんですから。怪盗は店の奥に寝ています。一服盛らせてもらいました。どうぞ、捕まえるなり逃がすなりしてください」
「待て」
少年が口を開いた。
「“灯”は奴を始末する。これは規定事項だ。奴は俺たちの目の前で犯罪の予告を行った。これは“灯”に対する挑発行為だ。“灯”は奴に対してしかるべき措置を取らなきゃならない。邪魔しないでもらえるか」
「まぁいいんじゃぁないの?今回はあたくしたちの負け。負けを認めないなぁんて、それこそ“灯”の名に傷がつくもの」
少女がやんわりと少年を止める。
「勝手にしろ」
「それでは荻谷様、再びお会いできるのをとぉっても楽しみにしてますわ」
立ち去る三人。少女が思い出したように振り向く。
「もぉちろん、あなたのことも楽しみにしていますわ、月見里優佑先生」
三人は陽光の中に消えた。
「月見里さん、申し訳ない。無理なお願いをして、あいつらに付き合わせてしまった」
「いいんですよ、お祖父さん。それより、怪盗はどうなったんでしょう」
「私ならここだ!」
何故かポーズまで決めて現れたのは、太った紳士とは似ても似つかぬ若い痩せた男だった。「ばんな……そんなばかな!確かに睡眠薬入りのパンを食べたはず……」
店の人が驚く。
「いかにも私は睡眠薬入りのパンを食べた。そして、奥に隠れると同時に私は爆睡した。しか〜し、私は十五分ごとに腹時計が鳴るようになっている。それで飛び起きたというわけさ」
店の人が身構える。
「そう怖がるな。私は怪盗。約束のものを頂いたらすぐに消えるさ。では、さらば!また会おう」
怪盗は陽光の中に消え……
「うわっ、眩しい!体が溶ける!!」
消えた。
「それでは僕たちもそろそろ帰りましょうか」
そして二人の男は陽光の中に消え……
「うわっ、眩しい!体が溶ける!!」
「何やってるんですか、月見里さん」
消えた。


 あなたの街に、細い路地をいくつも抜けたところにある薄暗い飲食店はありませんか。もしかしたらそこは、怪盗やら犯罪組織やら探偵やらの世界かもしれません。そしてそこにはまだ、賞味期限切れの料理や睡眠薬入りのパンを出す女性が出てくるかもしれません。ほら、今日もまた一人、薄暗い店の中へと入っていきます。そう、この世には、まだまだ恐ろしく得体の知れないものがある……




(後書きは明日!)