『私愛する人といる。水、明日は』

今日は火曜日。
私は胸を高鳴らせて、洛星大学に向かっていた。
なんたって私の愛する月見里優佑先生が私を研究室に呼んでくれたんだから。
通常先生は研究室に人を入れない。学生が先生に用事があって話さないといけないときは、先生が部屋から出てきて話す。いつも一人で部屋にこもってなにか怪しげな機械を作っている。
そんな先生が私を研究室に呼んでくれた。きっと先生が私を大切な人だって思っている証拠だ。


私は研究室の前に立って深呼吸する。そしてドアをノック。
「入っていいよ」
「お邪魔します」
そういって入ると月見里先生が満面の笑みでアームチェアに座っていた。身長が低いのをごまかすためかアームチェアの高さを最高にしている。
「やあ、戸賀君。ちょっと遅刻だね」
「すいません、先生」
先生は昔、私のことを「悠奈」と呼んでくれていたのに、大学の教員と学生という関係になってからは、周りの目を気にしてかすっかり「戸賀君」になってしまった。もっとも、私も「先生」と呼ぶようになっちゃったけどね。
 「先生、今日はどうして私を呼んだんですか?」
 「実はね、とっても面白い発明をしたから君に見てもらおうと思ってね」
 「面白い発明ってなんですか?」
 「フフフ、見て驚くなよ、これだ!」
先生にしては珍しく不敵な笑みを浮かべて、そばにある机の上に載っている布を取り去った。
「え、何これ?」
 そこにあったのは小さなペンギンのぬいぐるみだ。
 「ちょっと先生、何なんですかこれは? なにかのいたずら? あ、わかった、私へのプレゼントですね」
 「違うよ。君へのプレゼントだったらもっと違うのを選んでいるよ。」
 「たとえばどんな?」
 「う〜ん、ネックレスとかイヤリングとかかな」
 「へ〜え、先生もちゃんと女心がわかっているんですね。でも先生にそんなものを買う余裕なんてあるんですか? 一緒に暮らしていても、いつも研究にお金を使い込んでてあまりいい生活をしていたとは思えません」
 そう、先生は金遣いが荒いのだ。いつも給料の半分は研究費に充てる。そのせいで一緒に暮らしている私が被害に遭っていた。
 「実はね、この春から私は教授になることが決まったんだ。だからその分給料も増えるよ。まあこの歳だからね、昇進して当たり前かな」
「『この歳』なんて台詞がよく言えますね。まだ三十代でしょう。そういうことはあまり人に言わないでくださいね。それだと私が変なおじさんと一緒に暮らしてきたみたいじゃない」
「『変なおじさん』って傷つくなあ……。まあ、いいか。そんなことより話を戻すよ。実はね、このペンギンのぬいぐるみには回文制作装置が付いているんだよ」
それを聞いて私は「え?」と声を上げた。
 「回文って『竹藪焼けた』とかいうやつですよね?」
 「そう、その通り。上から読んでも下から読んでも同じになる文だ。この人形の中には僕がプログラミングした特別なプログラムが内蔵されているんだ。ものは試しだ、一回スイッチを入れてみよう」
 そういって先生はスイッチを入れた。
 でもペンギンは何も言わない。
「あの〜、先生、何にもしゃべらないんですが」
「まあ、今は思考中なんだよ。しゃべるまで時間がかかるよ。それと、考えついたらすぐに音声として発するから、急に声が出てきてもびっくりしないでね。まあそれまでゆっくり話――」
 先生は最後まで話さなかった。何故ならペンギンがこう言ったからだ。
『倫理』
 その場の空気は固まる……。
「ちょっと、何ですか先生。『倫理』って短すぎです。これじゃあ回文じゃなくて『回単語』です。もしかしてこんなものを作るために一生懸命頑張ってたんですか?」
「いやいや、誤解だよ。実はこのプログラムには徐々に回文のレベルが上がっていくように書き込まれているんだ。」
「ということは、回文のレベルが上がるまで私たちは待っていなきゃいけないってことですか?」
「まあそういうことになるね」
私は溜息をつく。この先生のとぼけ方は相変わらずだ。


私がまだ小学校一年生だったとき先生に(もちろん当時は先生じゃなかったけど)、
「どうして人間は死ぬの?」
ということを聞いた(今思い出したらずいぶんませたことを言ったなと思う)。すると先生は
「あれ、知らないの? 実はテレビでやっている殺人事件や事故は全部作り話なんだよ。小学生を怖がらせるためのはったりだよ。実際には人間は死なない生き物なんだ。もちろん悠奈もね。だから安心しなよ。」
そういって小さな体で私にキスをしてくれた。
その後私が本当のことを知ったのは小学六年生になってからのことである。先生にこのことを問い詰めると、
「まあそういうこともあったね」
と鼻歌まじりにとぼけられた。
まあ、たぶん普段からキスを拒みつづけていた私と何かしらきっかけを作りたかったのだろう。いまでは、ああしてくれたことで先生の愛情が確かめられたから感謝している。


と私が回想している内にまたペンギンがしゃべりだした。
『焼けた塔と竹屋』
相変わらず短い文だな、と私は思った。文句を言おうと思ったけど、
「ね、長くなったでしょ!」
と子供のように喜んでいる先生を見るとそうする気になれない。昔からそうなのだ。先生の子供っぽい笑みを見ると自然とこっちが和む。
「先生、もっとはやくレベルを上げることは出来ないんでしょうか」
「う〜ん、一回分解したらプログラミングしなおせるけど、そっちのほうが手間がかかるよ。さっきも言ったけど待つしかないね。そうだ、今の戸賀君の生活について意見を聞かせてくれないかな。何か困っていることとかない?」
突然そんなことを聞かれて私は戸惑った。そして私は顔を赤らめながら答えた。
愛する人と一緒に暮らしているので不満はありません」
そういうと先生は満面の笑みでこう言ってくれた。
「それは良かった、それなら僕も安心だ。これからもよき妻として頑張ってね」
と、そのときペンギンがしゃべり出した。
『三月とひな祭り。妻な日嫁がんさ』
私は急に回文のレベルが急に上がったことに驚いた。それと共になんともいえない悲しみが湧きあがってきた。そう私は妻になってしまったのだ。だから父や母とはもうほとんど会えなくなっている。
「はは、なかなか賢いペンギンだね。今の戸賀君のことをよく表して――」
「先生、もうやめましょう。『戸賀君』なんて呼ばないで」
そう言うと私は涙が出てきた。
「ちょ、ちょっとどうしたんだい?」
先生はあせっている。このまま困らせてやろうと思ったが、それは大人気ないと思いすぐやめた。
「だって先生、ずっと私のことを『戸賀君』って呼んでるでしょ。でも私は昔のように『優奈』って呼んでほしいの」
先生はしばらくしてから、
「確かによそよそし過ぎたかな。でも君の立場っていうものがあるだろう」
「いいの、たとえ私が結婚しても私にとってあなたが愛する人であることには変わりないんだから!」
「わかったよ。悪かったな、優奈」
先生はやっとそう呼んでくれた。私の涙はいつのまにか止まり笑顔へと変わっていた。
「そうそう、悠奈はそうやって笑っている方が良いよ」
「もう、切り返しがうまいんだから」
先生も笑顔になっている。
「そんなことよりさ、僕は君のことを『悠奈』って呼んであげたんだからさ、僕のことも昔のように呼んでくれないかな」
「え〜、それは無理よ。あなたは先生でしょ」
「でもさ、周りに誰もいないときとかはさ」
「冗談よ。ちゃんと呼んであげる」
いたずらっぽい笑みを浮かべて私は答えた。
「私の愛するお父様!」


そう、先生は私のお父様――
たとえ私が結婚しても、私の姓が変わっても私の愛する人――


ペンギンは静かにしゃべる。
『私愛する人といる。水、明日は』



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